第5章 父の試し
「はい、お父様。今は……魔法がとても面白いと思っております」
ロゲスト公爵の眉が、わずかに動いた。
この末娘は、以前はひどく甘えん坊で臆病だった。公爵の目をまっすぐ見て話すどころか、同じ食卓につくだけでもびくびくしていたほどだ。それが今は、こちらの問いに落ち着いて受け答えしている。
公爵は辛抱強く、重ねて問う。
「急にどういう風の吹き回しだ? お前はずっと『淑女に魔法は似合わない』と言って、嫌がっていたじゃないか」
アリシアは、あらかじめ用意していた言葉を、慌てることなく口にした。
「戦うための魔法は、確かに淑女らしくありません。でも……それ以外なら、悪くないと思ったのです」
少し間を置き、さらに“もっともらしい”理由を添える。
「カリーナが言っていました。今年の魔法科の新入生に、とても才能のある平民の女の子がいるって。殿下方からも褒められたそうですし……私、あの子に負けたくありません」
カリーナは幼い頃からの貴族の友人で、確かにそんな噂を口にしていた。もっとも「殿下方に褒められた」という部分は、本人が知る由もない話だ。入学後に広まる評判であり、かつてのアリシアがその平民の少女に目をつけた、最初のきっかけでもある。
そして、アリシアが第六皇子に憧れていることは屋敷中の公然の事実だ。そう言えば、誰もが勝手に納得してくれる。
ロゲスト公爵も娘の胸の内は察していたが、支持はしない。
公爵家の立場なら、動こうと思えば皇室との縁談など難しくない。だがサン・ロット王家では、後継者を巡る空気が不穏に揺れ始めている。現皇帝は健在で、後継も定まらない。この世界で王位は常に「強者のもの」だ。建前として不正な簒奪は禁じられていても、いざという時に手加減など期待できない。
娘を皇室に嫁がせれば、公爵家が露骨に“陣営”を示すことになる。得策ではない。
第六皇子のためだと聞いて、公爵の胸に不快が走った。だが――魔法を学ぶのは悪いことではない。結局、深追いはしなかった。
アリシアも、それを見越して口にしたのだ。皇室の揉め事に首を突っ込む気などない。
むしろ彼女は、数年かけてこう振る舞うつもりだった。魔法にどんどん傾倒していき、頃合いを見て少しばかり実力も示し、『私は魔法に生きます』という顔をする。そうすれば片想いも自然に終わらせられるし、将来の政略結婚も拒む口実になる。
強者には、強者の特権がある。
ただの貴族令嬢なら、どれほど可愛がられていようと、年頃になれば嫁ぐしかない。公爵夫人なら見抜くかもしれないが、幸い今は不在だ。夫人が戻る頃には、アリシアはすでに学院へ入っている。
王立学院は全寮制で、外出できるのは月末の二日だけ。今学期は、できる限り屋敷に戻らないつもりだった。学期が終わってから会えば、どれほど変わっていようと「私、成長しただけです」で押し切れる。
夕食は、公爵の帰邸に合わせて運ばれ、いつもより豪勢だった。痩せた娘を見て、公爵は貴族令嬢にありがちな節食を疑い、眉をひそめる。
「健康が第一だ。食事はきちんと取れ。くだらん痩せ方はするな」
「分かりました」
アリシアは反論せず頷いた。――守れるかどうかは別として。研究に没頭すると、本当に食事を忘れるのだ。
それに彼女自身、腹が減っていた。静かに、最後まで食べ切る。
食べ方はゆっくりだが、所作は意外なほど整っている。眉間に残っていた幼い甘えが、薄れていた。
公爵は黙って眺めながら、胸の奥で思う。記憶の中の小さな娘が、一夜で大人になったようだ、と。
食後、執事が呼ばせていたデルマン司祭が通された。すでに外で待っていたらしい。
この世界で病を診る者は大きく三つに分かれる。薬草を扱う薬草師、魔法薬を調合する魔薬師、そして光属性の魔法で治療する司祭だ。
デルマン司祭は少し珍しい。魔薬の煎じにも長け、薬草の知識も深い中級司祭である。執事の遠縁の平民で、司祭の才を見出されてからロゲスト家の援助を受け、学び終えてからは屋敷の家庭医として仕えていた。
デルマンはアリシアに手を差し出すよう促し、鳩の卵ほどの診断用水晶を手首に当てた。
ふわり、と弱い白光が一層だけ灯り、ゆらりと揺れて――すぐに消える。ほかに反応はない。
しばらくして、デルマンは手を引き、恭しく告げた。
「公爵令嬢は少々お疲れが見えます。しばらくご静養を。ほかに異常はございません」
アリシアの予想どおりだった。
魂に触れる診断魔法は高度で、中級司祭に扱えるものではない。そもそも彼女の魂は聖魔導師のものだ。格下がどれほど探ろうとしても、真の内側までは届かない。アリシアは表情を動かさない。
デルマンは体調を整える魔薬を一本渡してきた。アリシアは受け取り、ためらいなく喉へ流し込む。眉ひとつ動かさないまま、心の中だけで採点した。
(配合は悪くない。……ただ、火が若い)
公爵は娘の顔色が先ほどよりましになったのを見て、ようやく肩の力を抜いた。何か聞きたいことはありそうだったが、結局は飲み込み、休むよう促すだけで追及はしなかった。時間はいくらでもある。娘が無事なら、変化の理由もそのうち見えてくる。
アリシアは内心で息をつく。
ひとまず、この場は切り抜けた。事前に理由を用意しておいたおかげで、父も深く踏み込んでこなかったのだ。
部屋へ戻ると、彼女は何時間も静かに瞑想した。
呼吸に合わせ、魔法元素が少しずつ四肢へ染み込んでいく。ぬるい湯で何度も洗い流すように、まだ馴染みきらない肉体を整えていく。
一夜明け、魂と身体の噛み合わせが、またわずかに進んだ。鏡を覗けば、顔色は昨日よりずっと良い。あの病人めいた青白さが薄れている。
部屋を出ると、ルナがすぐに寄ってきた。
「お嬢様、公爵様は今朝、軍の駐屯地へお戻りになりました。お出かけの際に執事へ、『今後お嬢様が必要なものは執事に用意させよ。ご自身の小金庫を使うな』と」
アリシアの胸が、ほんのり温かくなる。
前世で彼女は、たった一人で法神の座まで登りつめた。こんなふうに気にかけられた覚えはない。今の父は――少なくとも娘を大切にしている。
「分かったわ」
頷いてから、もう一言添える。
「お父様に……お手数をおかけしたと伝えて」
朝食を終えると、彼女は再び実験室へ籠もった。今度煎じるのは魔薬ではない。錬金用の薬剤――固化剤だ。
彼女の世界では、錬金術の見習いが最初に触れる基礎薬剤で、安価で作りやすい。配合比率をいじれば、用途に応じていくらでも派生させられる。
アリシアが作るのは、その派生――蜘蛛糸用の固化剤。魔蜘蛛糸の厄介な粘りを消し、糸として扱える硬さと滑りに整える。そうして初めて、布へと織り上げられる。
買い込んだ材料は、大型の坩堝で何鍋も濃縮液を作れる量だ。出来上がった一本は5L。水で薄めて使えば、魔蜘蛛糸を1t処理できる。
それでいて、この大瓶の原価は金貨1枚にも満たない。
世間ではゴミ同然、拾ったも同然の安値で投げ売りされる低級の魔蜘蛛糸。それが布になった瞬間、価値は跳ね上がる。まさに濡れ手で粟だ。
アリシアは口元に、かすかな弧を刻んだ。
ぱちぱち、と炉火が弾け、坩堝の薬液がごぽごぽと沸き立つ。
彼女は視線を外さず、しかし頭の中ではもう次を計算していた。最初の布は誰に売るべきか。貴族令嬢向けにドレスに仕立てて流すか、それとも小物で様子を見るか――慎重に秤にかける必要がある。
